人との距離感

 10か月になる長男は生まれた時から片方の耳が聞こえない病気でした。
耳の穴が開いておらず、大きさも生まれた時からほぼ変わっていないです。
骨振動で少しは聞こえているかもしれないのですが、耳の形は体が大きくなって軟骨の移植により形成するしかないそうです。

【コロナ禍におけるマスク事情】
 成長するまでしばらくはマスクやメガネ、イヤホンといったものは物理的に使用できなくなります。
最近は卒業式でマスクするかどうかとか、電車の中ではした方がいいとかまだ色々言われていますが、5類になってしばらくしたら落ち着いてきてくれるのかなと期待しています。
もうコロナが世間を騒がせて3年になるわけですが、自粛警察やマスク警察と呼ばれる人が話題になったり身近にいたり、人付き合いの嫌な部分にばかり目がいってしまって色々と考えさせられました。

【人との距離感】
 仮に息子が10歳くらいの時にコロナが流行っていたらどうなっていただろうとふと思いました。
髪の毛で耳が隠れている息子がマスクをしないで町を歩くわけです。
お店の中に入れないとかは店側の決まりなので諦められるでしょう。
しかし事情も知らない見ず知らずの大人からマスクしろ!と大声で責められる、変な目で見られる、したくてもできない、自分だってみんなと同じが良かった・・・。
嫌な気持ちになったり、悲しくなったり、虚しくなったりしたでしょう。
私は自分の考えや価値観はしっかり持っていたとして、その上で人とは適切な距離感をもって接することができる人でありたいです。
今はLGBTなど多様性を認めようとする一方で、心の奥底では今までの人生で形成された価値観によって抵抗がある。
人種のるつぼと言われるアメリカでさえ、文化や民族の多様性を認める一方で黒人差別などが根強くあったりしますね。
しかしながら距離をとって問題を起こさないようにするのも違う気がします。
大きく距離をとってもそれはそれで人を傷つけてしまうかもしれないし、あまりに何も触れずに上辺だけだとそれも寂しいですよね。

【ノックしてから入ってほしい】
 私は「関わってはいけない人」からは何も言わずにすぐに逃げるようにしています。
仕事ではなるべく表情に出さないようにしていますが、「もう知らんから好きにせえよ」と思うことがよくあります。
けっこう好きか嫌いの0か100で人と付き合っていることが多いと気づきました。
世の中に変な人や自分と分かり合えない人が多いことは事実ですが、ちょっと今の自分の考え方は改めるべきなのかなと思っています。
LGBTなんて面倒くさい」「意地はらんとさっさとマスクせえよ」とか、相手の事情とか何も知らないのに、合わないと思うと逃げるか大きく距離をとってやり過ごします。
私は歩み寄ろうとした相手が人の善意を利用するたちの悪い人だった場合が嫌なのです。
大学生になって少しずつ社会を知ったとき、そういう人が身近に、しかも結構多くいることに衝撃を受けました。
そんな人に利用されるのは嫌だというのがあって、自分の中で折り合いがつかないのだと思います。

 しかし先日テレビを点けていて、ロバートキャンベルさんの言葉にとても納得させられました。
番組の内容はよくわからなかったのですが、子どもの質問に回答するというものだったと思います。
その中で、「私は自分の家に鍵をかけます。入ってくるときは、ちゃんとノックして入ってきて下さい」という感じの話がありました。
あ~これが自分がやりたいと思っていることを言語化したものなんだと思いました。
「鍵は掛けるけど相手の価値観や多様性を受け入れるスタンスだから気を悪くしないでね。人の善意を利用するたちの悪い人だったり、関わってはいけない人を招き入れないためだよ。あなたとはしっかり分かり合いたい。でもノックしてから入ってきてね。
私はこの距離感を大切にしたい。」
自分とは合わないと思う人も、その人の事情を知ったら分かり合えるかもしれません。
だから鍵は掛けてるけど、私も避けずにノックしてから相手の領域に踏み込むようにします。

言葉にすると簡単なことですが、適切な距離感で人付き合いが出来るように少しずつ変えていきたいと思います。

責任の所在

 今回は責任の所在ということについて記します。
工業簿記を勉強している中で面白い記述がありました。
原価計算のために細かい分類があるのですが、主に製造間接費がどの製造工程(部門)でどれだけかかっているかを反映するために部門別計算というものを行います。
この部門別計算の目的として、原価の発生に関する責任の所在を明らかにするという記述があるのです。
なるほど簿記の世界では製造(原価)における責任がどこにあるのかを原価と言う数字で部門別に示すことで考えられるのだと感心しました。

【指揮命令系統の厳守】
 会社のような組織の中で問題が起こったとき、誰の責任かが明確にわからない場合があります。
そうならないために私が絶対に守り守らせていることは指揮命令系統です。
現場には元請けの立場で行くことが多いのですが、一緒に仕事をしてくれる一次下請け、その下に二次下請けと呼ばれる協力会社の方がいます。
元請けは一次下請けを飛ばして二次下請けに直接指示することはできません。
さらに言うと一次下請けの中でも責任者の方にしか作業の指示は出しません。
そして各責任者が自分の会社の作業員に責任をもって指示するのです。

ところが現場を巡回していると、この指揮命令系統を無視して一作業員の方から質問されたりするのです。
内容は大小さまざまですが、私はどんなに小さな指示でも絶対に出しません。
「まず、自分の会社の責任者に聞いたんですか?」と言い返します。

指揮命令系統なんて当たり前だよと思うかもしれませんが、これが出来ない人は結構います。
確かに目の前に答えを知っている監督がいれば聞きたくなるのかもしれません。
しかしそれが常態化すると、現場のあちこちで予定と違うことが起こり、元請会社として決めている安全な施工計画が変わっていくことに抵抗がなくなってしまうのです。
安易に出した指示でもし事故が起こったら誰が責任を取るの?私やあなた個人でどうやっても取れないでしょ?となります。
(ただし危険な行動をしているときに限り、直ちに作業を止めるよう指示を出します)

【組織に守られている】
 面倒くさい監督だと思われているかもしれませんが、指揮命令系統を守ることがみんなの身を守ることになると信じています。
これが守られていないと、有事の際に会社として社員を守り切れないということもあり得るでしょう。
逆に言うと、どんな不安要素も自分が指揮下にある組織のトップの耳に入るようにきちんと報告しておけば、自分の身は守られると言えるでしょう。
自分の独断で勝手にやったことについては自分で責任を負うことになりますが、トップが「知らなかった」ということでなければ組織として必ず守ってくれるはずです。
(そうでない組織からは去る。ニュースを見ていると、なぜトップが責任をとることが少ないのか疑問に思います。)

【トップとの接し方】
 ある程度自分で仕事ができるようになると、こんなことも忘れて会社や上司が嫌だと文句を言ったり、自分で勝手に仕事を進めたりしていました。
しかし、自分はある意味子どものようなもので、守られた立場で仕事をさせてもらっているということを忘れていたように思います。

いざという時が訪れないと、なかなか現状に感謝することは難しいのかもしれません。

例え馬が合わない人だとしても、責任ある組織のトップにはリスペクトをもって接することが大切だと思います。

忘れないようにしたいです。

新しい世界を知る

 先週の金曜日にグーグルアドセンスの申請をし、火曜日にアカウントの有効化が出来たと通知がありました。
いろいろ操作しながらどんなものなのか勉強していますので、少し記事が見づらくなるかもしれませんが勘弁してください。

【ブログそのものに興味を持つ】
 他の方のブログを見ていてグーグルアナリティクスを知りました。
これを実際にやってみると、「すごくたくさんのデータがあるけど何をどうやったらいいんだろう・・・。」となりました。
そして他にはブログでどんなことができるんだろうと興味をもったのがグーグルアドセンスです。
はてなブログPROから始めていて独自ドメインもあったので、申請してみようと思いました。
(始めた当時は何も知らず、せっかく見てもらうなら広告とかない方が見やすいだろうなぁと思ってPROにしていたんですが・・。)

Amazonアソシエイトなども知りましたが、自分には合ってないと感じたのでやめました。
私は他の方のブログでお薦めされていた学校用電卓をこれで購入したことがありますが、自然な文章の流れで興味を持って「これを自分が書くのは難しい!」と感じていました。
(今までは電卓の反応が悪くてストレスを感じていましたが、お薦めされたものは簿記の勉強用に重宝しています。)

 さて、昨日は自分の記事を見ながら「ここに広告が追加で貼られた」とか「自分が検索した宿が出てる」とか面白くて何回も見ていました。
普段何気なく見ているサイトに貼られている広告の仕組みがこうなってるんだと感心すると同時に、これを本業で生計を立てている方の分析力の凄さを感じました。

【新しい世界を知る】

 自分が知らなかった新しい世界を見ると、視野が広がったり考え方が変わったりします。
今回はモノを作って売るまでの生産者と購入者の間に様々な労力や仕事があるということに触れることが出来ました。

私はITリテラシーが低いほうなので、今までは「ITスキルを身につける = プログラミング能力だ!」くらいの感覚でした。
しかしアプリをプログラミングできる事とサイトを分析して集客や収益を上げることは同じITの分野でも全く異なる能力ですよね。
システムを構築するプログラマーはバリバリの理系思考の方が向いていると思いますが、後者ではむしろ文系分野で経済や心理学のバックボーンがある方の方がいいのではないかと感じました。
子どもの習い事でもプログラミングスクールは人気があるようです。
今までだと「これからの時代はプログラミングは大事だから習わせてみよう」と単純に考えていたかもしれませんが、システムを作るのはプログラマーに任せればいいし、他にも必要な仕事はたくさんあるんだなぁと思うと判断材料が増えて別の選択も出来そうです。

 働いて最初に車を買ったとき、現場の先輩がボンネットを開けて車のメインであるエンジンだけでなく、ダイナモラジエーターなどいろいろ教えてもらいました。
「これは先人たちが苦労して作り上げた技術の結晶なんだ」という言葉を今でも覚えています。
知らなかった車の仕組みを知ることで、その価値を知り、車を大切に扱うということにつながっていると思います。

仕事で新しいことを学ぶことはありますが、プライベートでは最近そういう経験をなかなか出来ていませんでした。
今回はてなブログで新しい世界を知ったことでわくわくしてちょっと嬉しかったです。

他の方の記事も楽しく見させてもらってますし、専門知識のある方のものはとても勉強になります。

育休終わったらなかなかできないと思うのですが、楽しく続けながらこれからも新しい世界に触れられたら嬉しいなと思います。

育児とゆでガエル

 今回は育児とゆでガエルということについて記します。

【ゆでガエル理論】
 現場で仕事をしているときにゆでガエルのお話を聞いたことがあります。
沸騰した鍋にカエルを入れるとびっくりしてカエルは逃げ出してしまいますが、常温の状態から火にかけると沸騰してもカエルは逃げ出さずに死んでしまう、という話です。(実際は後者でも逃げ出すらしいです)
これにかけて、現場ではちょっとした小さい危険を気にせずほったらかし、それに慣れてどんどん危険な状況になっても気にしなくなり、最後は重大事故を起こしてしまう、という教訓として労働災害防止のための教育に用いられます。

【育児の鍋は逃げ出せない】
 なぜこれを思い出したかというと、育児における鍋は最初からアツアツで、しかも逃げ出すことができない過酷なものだなぁと思ったからです。
仕事ならやばいと思ったら逃げ出せばいいし、もしかしたら途中で環境が変われば鍋が冷めてくれるかもしれません。
しかし育児の場合、自分だけでなく子どもも絡むので、ストレスの原因をわかっていても簡単に変えられない、アツアツの鍋の中で耐えるしかできないことも多いでしょう。

【妻の思惑とキャパシティ】
 私が来月末に育休が終わることを意識してか、妻は最近「お父さんはいないものとしてやっていく」と言っています。
ところが先日、妻から「育休とったらもっと楽になると思っていた!」とか、「何のために育休とったの!」と声を荒げて言われました。
妻があたふたしているときに私が寝そべってスマホを見ていたのが気に食わなかったようで、これで火がついたようです。
私も納得がいかなかったので、あえて同じテンションで言い返しました。
「遊んでるわけじゃない」
「察してだけでは限界がある。ちゃんと言葉で言えよ。」
妻のお陰でいろいろ出来るのはありがたいのですが、今せっかく一緒にいるのに何も頼らないのは違うし、それで何のために育休とったのと言われても・・・。

とはいえ、妻の考え方もわかります。
私は育休が終わると単身赴任の可能性が高く、実際「いないもの」になってしまうからです。
今は二人がかりで長女が幼稚園に行くまでの準備をし、長男が夜泣きしたら私も抱っこして寝かしつけます。
料理や幼稚園の用事はほぼ妻がしてくれますが、洗いものや洗濯、掃除等の家事や他の用事は今でも私がやっています。
これらも全て妻の負担になったとき、夜泣きで寝れず、疲れた身体で時間に追われながらギリギリの生活をしていそうな気がします。

【溜飲が下がる】
 しばらく大声で言った後、私は心配していることをゆっくり説明しました。
「実際にあなたが倒れたりしたら、俺は単身赴任は出来なくなる。
家から通勤して会社で内勤するパターンも想定しているから、そのために資格も含めていろいろ勉強している。
スマホを触ってるのも株価やマイホームのための情報収集をしているためで、遊んでいるわけではない。
家なんか買うと決めてすぐに出来るものではないし、年齢的に住宅ローンを組むならあまり時間もない。
形は違えど俺も将来の事を思って動いている。
いないものとして扱われても、楽して遊んでいるわけではない。」
言いたいことを言って、妻もそこまで私が何を考えているのかわかっていなかったのか、お互いに溜飲が下がったと思います。

【私のゆでガエルの解釈】
 さて、冒頭のゆでガエル理論ですが、私は少しポジティブに解釈しています。
人間は慣れてしまうと大けがをしますが、逆に言うと、人間は変わっていく環境にも慣れて順応することができるということです。

私の残り2か月弱の育休は、「私のいない状況でも妻がつぶれずに育児に順応できるようサポートする」ということのためにあると考えました。

妻は考えだすとなかなか決められない性格です。
それで時間が割かれてストレスになるのであれば、一緒にいる今のうちに決められるものは決めてしまいます。
(今は子どもの習い事は何がいいか色々見ているようです)

そして完璧を求めやすく、一人でため込みやすい性格です。
特に疲れているときはやり過ぎないように寄り添って声をかけます。
(疲れているときまでしっかりご飯を作る必要はないんです)

そして一番のストレスは、長女の赤ちゃん返りです。
甘えるだけなら何も問題ないのですが、長男を叩いたりして怪我させる恐れがあるため毎日怒っています。
この長女の問題がクリアになれば、(これが問題としては大き過ぎるので)ほぼ解決できると思っています。
私が長女とできるだけ一緒に過ごしながら「君は本当はやさしいお姉ちゃんだ」ということを認識させたいと思います。

育休をとって半年になりましたが、今でも育児が安定せずに悩むことがあります。
妻が順応できる前に鍋が沸騰してしまわないよう、自分ができる事、やっておかなければいけないことは何かを考えて、残りの2か月弱を有意義に過ごしたいと思います。

節分とヒイラギ

 今日は節分です。
お昼にスーパーへ恵方巻を買いに行ってきた妻が「ヒイラギもらえたよ~」と言っていました。

そして作ってもらいました。
はい、ヒイラギいわしです。

ヒイラギいわし

【みんなの幸せを願う】
 私は九州の出身ですが、これは初めて見ました。
なかなか強烈で声をあげてしまいます。
なるほど、これは鬼を追い払う力がありそうです。
あとは「おばけの日」といって、繁華街では仮装して接客しているところもあるみたいですね。

桃の節句などあらゆる伝統行事もそうですが、結局は「みんなの幸せを願う」ということになるのかなと思います。
行事の形式は時代とともに変わったものもあるかも知れないですが、父や母、祖父母、もっと遠くのご先祖さまから今の自分たちの幸せを願って続いてきたと思うと、感慨深いです。
さいころは友達と遊びに行きたくて、家族と過ごすイベントを煩わしく思っていた時もありました。
親になって自分の子どもたちを見ていると、幸せになることを祈りながら一緒に過ごしたいと思います。

ヒイラギいわしは玄関に置いて眠ります。
鬼を追い払い、これからの一年を家族と健やかに過ごせることを願って。

鬼を追い払う

 

育児におけるリスク評価と結果論

 今回はリスク評価と結果論ということについて記します。
私の仕事は建設業で現場の施工管理をしています。
同業の方はご存知かと思いますが、各作業毎、作業日毎にどんな危険が潜んでいるか、そのリスクの洗い出しや評価、優先順位などをみんなで決めた上で対策をすることで労働災害の防止に努めます。
リスクアセスメントや危険予知活動と言われるものがこれに当たります。

【リスクの捉え方】
 世の中に絶対、百パーセントあることは人が死ぬことだけです。
どれだけ対策をしても事故の可能性をゼロにすることはできません。
物理的にハード面でどれだけ対策をしても、人がやることにはミスが起こりえます。
世の中に絶対はないのです。

【どこまで対策するか】
 では何をどこまで対策するかが重要になってきます。
例えば、子どもが窓から転落してしまう可能性について、これは起こってしまうと一撃で重大な事故です。
こういう重大性が高い事故は優先的に、そして重大性が低くなるまで対策します。
窓の側に踏み台にできるものを置かない、一人でその部屋で遊ばせないよう手が掛かりますが監視するなどの対策が必要です。
さらに踏み込んで窓に柵も付ければ安心だ!と思っても、そのために窓に柵をしてはそこに雨戸の設置や洗濯物を干したりはできなくなるという側面もあります。
そこまでしてやる必要があるかと言われると、やり過ぎのように思います。

【育児においては完璧を求めやすい】
 事故の重大性の低いもので考えると、棚やテレビ台などの角にクッション材を巻くことがあります。
一人目が生まれてハイハイしだしたときは我が家もあらゆるものに取りつけました。
しかしすぐ外れる(外される)し、その都度直すことが大変でストレスでした。
これも考えによっては危険ですが、ピンポイントで台の角めがけて子どもが転倒してそこに顔面ぶつける可能性の方が小さいだろうなぁと考え直しました。
多少のけがをさせてしまうリスクはあっても、全てにおいて完璧を求めると疲れてしまいます。
しかし、このように育児においては出来る限り完璧(リスクゼロ)を求めやすい傾向があるのではないかと思っています。

理由は当たり前ですが、子どもが大切だからですね。

【必ずそうなると分かっていれば】
 10年程前になりますが、「弁護士のくず」という漫画が好きで本を読んでいました。
もう手元にないのでうろ覚えですが、失敗することを嫌う私が感心したエピソードがありました。
それは大麻を使用して捕まった売れないロック歌手の話です。
この男を警察の調査方法が不当だとして裁判で救ったのが弁護士の九頭という人です。
その男には彼女がいて、彼が直接彼女に渡して時々ふたりで大麻を吸っていました。
彼は釈放されてからロックを辞めて結婚して真面目に働くと彼女に切り出しますが、逆に彼女から別れを告げられてしまいます。
その後ストーリーの終盤で、彼女が覚せい剤を使用して亡くなったことを新聞で知ります。
九頭弁護士は調査のなかで彼女が大麻を栽培している別の男をゆすって金を要求していたことを知り、依存症ではないかと彼に忠告していました。
しかし彼は自分と一緒にいる時しか吸っていないし、自分が渡しているからそんなわけないと取り合いませんでした。

まさか自分の知らない所で彼女が覚せい剤にまで手を伸ばしていたと知り、忠告を無視して何も確認しなかったことを悔やんでいる彼に弁護士が言うのです。

「結果論だ。
必ずそうなるとわかっていれば、誰も無視しない。
しかし大抵のことは何も起こらないんだ。
世の中には他にも心配事なんてたくさんある。

それら全てを背負っていくのは不可能だ。
あんたを責められる奴なんかいない。
俺もあんたに押し付けた。」

弁護士もほぼクロだと気づいていたはずなのに、彼に忠告しておけばうまくやるだろうと放置したことを悔やんでいるようでした。
しかし彼の言う通り、他にも心配しなければいけないことはたくさんあり、全てを完璧にしないといけないというのは難しいのだろうと考えさせられました。
「結果論」という言葉はとにかく何でも完璧にするのではなく、物事に適切なリスク評価をしてそれに応じた対策をするという新たな視点を持たせてくれました。

【お互いが納得するところで折り合いをつける】
 さて、妻がキッチンで一人で料理をしているとき、10か月の長男がお母さんの近くに寄ってきます。
そして遊んでもらえないと、最近引き戸を自分で開けて廊下に出てしまうようになりました。
そのドアを開けるとすぐに下に降りる階段があります。
落ちては大変なので、妻はしょっちゅう料理を中断して長男を引き戻していました。
これが大変で全然進まない!と相談というか、当たられました。
そこで私はアマゾンで1本400円の突っ張り棒を購入して、以下のように説明しました。
・置くタイプのストッパーやつっかえ棒だと長男が外したりなめるからしないこと
・柵を設置すると大がかりで大変だということ
・ドアは開かなくてもつかまり立ちは出来るので長男のストレスも和らぐこと
・階段に一番近いドアだけ都度設置すること(他のドアは両開きで内外両方に設置する必要があり、大変だからそこまでしない)

・他のドアを開けて廊下に出てしまった場合のみ連れ戻すこと
突っ張り棒の取り付け取り外しも簡単だし、これを料理の間だけすれば大分気が楽になるのでは?と説明してこの対策に落ち着きました。

突っ張り棒の設置

両開きのドア(突っ張り棒なし)


妻は階段に行き止まり柵みたいなものが欲しい感じでしたが・・・。
妻には言っていませんが、うちの階段はらせん状になっていることと、そのため最初の2、3段は広いため、私は万が一落ちても一番下まで落っこちることはないと考えています。
この辺は個々のリスクの捉え方ですが、とりあえず妻も納得してくれたので、これで精神的に楽になってくれれば良いなと思っています。
どうしても心配で手につかない!と言われれば、次は階段の前に簡易的な柵を設置することになるでしょう。

決して自己満足で終わるのではなく、その事故の可能性と重大性、それに対する対策を冷静に評価して、できる限りストレスにならないところで折り合いをつける。
大切な子どもが万が一ケガしてもいいのか!とひょっとしたら誤解を与えてしまっているかもしれません。
しかし私は復職後に単身赴任の可能性が高く、どうしても妻の負担が大きくなります。

過度な対策はその手間からストレスを感じることもあるでしょう。

私の場合、やり過ぎて妻が精神的にダメになる方が心配です。
育児における精神的ストレスをなるべく和らげるにはどうすればいいか、適切なリスク評価と対策という視点でこれからも考えていけたらと思います。

育休中のリスキリングについて

 今回は最近話題のリスキリングについて思うことを記します。
私の場合は妻がもともと専業主婦であり、第二子が生まれた時に育休を取得しました。

【育休中の自分の時間】
 長男が生後10か月になり、少しずつ自分で寝たり、まとまった時間寝られるようになってきました。
妻と私である程度役割分担がなされていますが、やはり自分の時間がとれるのはみんなが寝た後の20時以降になります。
長女が幼稚園に行っているときに長男が昼寝するときもありますが、基本的に本など読んでも気になって集中できない感じです。

【自分はこれからどうなりたいのか】
 そんな自分の時間には最近簿記の勉強をしています。
私の勤め先の主軸は製造業ですので、工業簿記を学びたいと思ったのがきっかけです。 
将来的に現場から工場へ配属された場合、設計などの一専門部署の知識だけでなく、工場も含めた会社の全体像を掴んでおきたいという思いがあります。
また、工事部に所属している今でも半期に一度年度予算に対する達成状況や粗利、一人当たりの生産高等を会議で説明されますが、それが何の基準をもって良いか悪いかも分かっていませんし、今までわかろうともしませんでした。
40手前になってこれから管理職にもなるのに、いつまでも現場の事だけわかっていればいいという考えもさすがにまずいなぁと思っていました。
2月下旬に日商簿記3級と2級を申し込んでいますので、そこをリミットに勉強しているところです。

【育休中のリスキリングについて】
 さて、金曜日の参院本会議で育休中のリスキリングを後押しするという総理の答弁が話題になってますね。
これ私のような育休と専業主婦で夫婦ともに家にいる比較的まだマシなパターンでもかなり厳しいこと言ってます。
私は独学で前回11月に日商簿記3級を受けましたが、落ちてしまいました。
勉強時間が足りないとか地頭の問題もあるのでしょうが、私の見解では育児をしている状況で勉強するということはかなり厳しいです。
頑張れる人は一定数いるのでしょうが、共働きで奥さんだけが日中家にいるパターンだと負担がかかりすぎるし、ましてそれを後押しする意味がわかりません。

【後押ししてほしいところは別にある】
 そもそもスキルアップやリスキリングのために自分が何を勉強してこれからどうしていく必要があるかを明確にイメージできる人は少ないのではないでしょうか。
私は資格の勉強をしていますが、そもそも資格だけとっても実務経験を積まないとキャリア形成にはならないと思っています。
宅建や士業など資格を持つことで出来る仕事もありますが)
会社員でこの資格持っていたら年収100万円単位で上がりますというものは無いように思いますし、出世して給料が上がっても所得制限に引っかかったり超過累進税率でさらに多くの税金を納めることになったり、そんなに生活が良くなることはないと思います。
じゃあ本業でなく副業や投資のための勉強をしよう!と思っても、支援を検討されているのは「企業」に対してです。
会社を休む人に対して企業が自社の成長戦略のためにこれを勉強しておけ、システムを構築しておけ、概案をまとめておけと指示するということでしょうか?

もはやただの仕事です。
育休中の個人を直接支援するものではないし、政府の根本の意図が分からないです。
キャリア形成が重要と考える人はわざわざ育休中にせずとも自分のタイミングでしっかりやるでしょう。
企業に対しては今でもキャリアアップ助成金などの制度があるわけで、新設より現行制度の見直しでいいのではないでしょうか。

【パッケージ案を危惧する】
 制度が新設や改善されると抱き合わせで別の事が改悪されるという話があります。
一方を補助すれば、その予算確保のために他方を締め付けるという感じでしょうか。
(NISA恒久化などの改正も代わりに何かあるのではないかと言われていますね)
何でもかんでも変な制度を新設するのは反対です。
変に助成する制度が増えて、生活が助かったりリスキリングで賃金が上がったなどと判断されれば、育児休業給付金など個人にとって本当に必要なお金が削られたり安易に増税するただの口実にされるかもしれません。

「異次元の少子化対策」 この言葉はやはり数年後にも虚しく響き渡っていそうだなぁ・・・。